台湾では、《算命》とは占い全般を意味する。 《命》とは寿命のことではなく《運命》を意味し、《計算式により運命を分析する学問》全般を、《算命》と呼んでいる。
昭和40年代、故高尾義政氏は初めての著書において「中国占星術」という名称にて出版されていたが、50年代に「原典算命学大系」を出版された時には、《算命学》という名称を用いていた事を考えると、どうやらこのあたりが《算命学》という呼称の始まりなのではないかと思う。 同じ理論を基とする四柱推命や九星気学との差別化に、独自ブランドとしてこの《算命》の言葉を使ったのか、それともこの学問を伝授した中国人僧侶が《算命》という名称で教えた為、そのまま《算命学》になったのかは定かではない。 故高尾義政氏と同年代の清水南穂氏は、31歳の時弟子入りした際には、既に《算命学》という名称を使用していたと明言している。そう考えると、40年代の出版物は出版社サイドの意向もあり、「中国占星術」としたと思うのが妥当であり、高尾氏が中国人僧侶より学んだものこそ《算命》であり、それを学問として樹立する時、学問の名称を算命学と命名したのではないかと思う。
算命学・四柱推命学・九星気学は、全てその原点を遡ると推命学・万象学・子平法と呼ばれているものから派生している。 これらは、卜占や筮竹、手相などの相占とは一線を画した学問であり、個々の人間を干支暦という数字に置き換える事により、分析する人文科学である。その体系は、約3500年前の中国殷帝国にて成立した陰陽学を祖とされていることが、司馬遷によって著された歴史書『史記』にも記載されている。
殷帝国が周によって滅ぼされた後、陰陽学は周易として発展していきながら、中国の民間宗教 道教文化へと組み込まれていく。軍略法としての登場は、約二千三百年前 戦国時代 揚子江流域の楚の国に鬼谷子という人物が誕生し、この人物により活用されたと史記に記されている。
鬼谷子の本名は王翻(おうく)。鬼谷という所に在住していた哲学者だったので、《鬼谷子》と呼ばれていたようだ。 春秋戦国時代の秦が生まれる頃、軍略家(縦横家)として名を馳せた蘇秦、張儀の師匠であったことから、軍師達の師匠と語り継がれた人物だ。鬼谷子の軍略法は 自然観察 人間観察に基づくものであったといされ、道教では鬼谷子を「古の真仙」として尊重している。その軍略法は、王朝を支える軍師達の秘伝として《一子相伝》の形で清王朝へと2000年間もの時間をかけて受け継がれていった。