高尾義政氏と算命学(清水南穂氏著)①

私は、2000年4月に始めて清水南穂先生にお会いし、氏の類まれな善良さと算命学の知識の深さに感銘を受け、個人教授という形で算命学を学ぶという非常に贅沢な学びの経験を戴きながら今に至ります。

このブログでは、2012年8月27日から1年かけて先生にインタビューし、先生の回顧録という形で、故高尾義政文学博士(ご宗家)との想い出、及び算命学の成立した過程をまとめたものを、ご紹介していこうと思います。

 

はじめに  

私が算命学と出会い四十二年、平成二年六月二日に算命学第十三代ご宗家、高尾義政氏が急逝されてから二十三年もの月日が流れた。

平成二十四年は、ご宗家の二十三回忌。

私は毎年欠かすことなく、ご宗家のご命日に嵐山まで伺っている。

永い間ご宗家のお墓をお守り下さっていた、松川由子女子(安寿様)も平成二十五年に旅立たれてしまわれた。

安寿様とは、共にご宗家から算命学を学んだ同窓だ。実際には、入門時期は我々より遅かったため、後輩となるが ご宗家一筋。ご宗家が亡くなられた後もずっと御守りして下さっていた。

ご宗家が急逝される直前の事だ。体調の不調と反比例するかのように感性が研ぎ澄まされていかれた晩年のご宗家が、算命学を祀った寺院を建立することを願われた。

どこの地が良いか探しまわっていらしたご宗家が、選ばれた地は、埼玉県嵐山だった。そこに 算命学を祀った寺院、倫道観寺を設立することになった。 その際、安寿様は 倫道観寺を護る役割を自ら担われ、ご宗家から得度の儀式を戴き、京都で尼僧の資格を取得するため修行をされ、そして、いよいよお寺の建立の準備を始めようという時にご宗家が急逝されたのだ。

ご宗家の死によって、お寺が建立される話もなくなり、埼玉県嵐山に準備室として用意された民家にて、ご宗家の奥様と共に祀っていらっしゃった。安寿様は奥様の没後もずっと護っていらっしゃった。

その安寿様が 今年亡くなられた。

私自身も 古希を超え、このままだと算命学という学問は残ってもご宗家の存在の記憶が次の世代に伝えられて行くのだろうかと、案じている。共に学ばれた方々もいなくなり、私自身に残された時間も限られている中、私の行うべき役割を考えてみた。

私の役割は、様々な情報が溢れている今だからこそ、正式な算命学の知識を 次の世代に伝えることにある。多少焦る気持ちもあるが、その為には、まず、ご宗家について語ることから始めたい。

算命学はご宗家が残された我々へのメッセージであり、その偉業は完成することなく 終わってしまっている。

そして 私の知る算命学ご宗家、高尾義政氏は類稀なる人格者であり、優しく、大きく、人間の弱さと優しさと脆さを兼ね備えた純粋な人物であった。

学問の深さも並大抵ではなく、最期に残された博士論文に至っては、専門の教育を受けた経歴のない人物が書けるようなものではない。

書き上げるのに 如何なる努力と苦労をされたのか。その測り知れない能力には ただただ感服するのみである。

又 逆から言えば、専門の教育を受けていかなったからこそ 独特の視点を持つことが出来、物事を純粋に捉えることが出来たのかもしれない。

いずれにしても ご宗家の偉大すぎる功績を、いつの日か、誰かが引き継いでこの学問を更に昇華してくれる時のために、今私に出来ることは、ご宗家について、私の知り得ることを書き残すことなのだ。

算命学という学問は、源流となる物の考え方が大切だ。

私の直門下生の皆様には、ご宗家に学んだ算命学を、ご宗家から学んだままの姿で伝えている。

私の方で新しく脚色したものは一つもない。純粋な意味での ご宗家の算命学であり、また それ以上のものはない。

算命学とは、ご宗家が生命を削って作り上げた 俊玉の賜物なのであり、我々日本人に残したメッセージなのだ。

そのためには、まず ご宗家と私との歴史 関係性を語る必要があるだろう。

平成二十五年 九月末日

算命学第十三代ご宗家 高尾義政氏 直門下生

日本算命学会 清水南穂

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