算命学カウンセラー協会は、算命学を中国古典の学問として捉えている。
特に宋学との関係性を研究テーマとし、追求していきたいと思う。
今回は、近代日本の黎明期の礎を創った日本の思想家
佐藤一斎の言志録に基づき、宋学に再興した儒学、朱子学における影響を、
暦学・算命学視点から解釈を行ってみる。
言志録 十干考察
言志後録 第123条 佐藤一斎
山は実を以て体と為して、而も其の用は虚なり。
水は虚を以て体と為して、而も其の用は実なり。
この短い文章、実に味わい深く、解釈が難しいが、
暦学・算命学視点から考察すると、
様々な姿が見えてくる。
ここで登場する、山は、干支暦学に変換
十干でいうと、山は戊
水は壬となり、
下記のような図式を描くことが出来る。
戊(山)は不動であり、
壬(大河)は流動である。
山も大河も高さを求める。
己(地)は不動であり、
癸(水滴)は流動である。
大地も水滴も高さを求めない。
戊(山)・壬(大河)は、無意識に
高さを求めるため、
運・不運を意識するが、
己も癸は、高さを求める質でないため、
運が良い悪いはそれほど意識せず、
道教的、TAO的に、
無為自然であるため、
自然にひきよせることが出来る。
暦学・算命学 言志後録の解釈
暦学・算命学では、山(戊)は不動。
水(壬)は流動。
両者とも、山(戊)は高い方が立派とし、
水(壬)の流れも高さがあることで勢いを増す。
水(壬)は、その形態は実体がなく、
様々な形に変化するため、形のなき虚体である。
ゆえに、様々な形に変化でき、
時代に合わせ、立場に合わせ、
相手に合わせ、状況に合わせ、流動的に変化する。
土(戊)は、形があるため実体であり、
状況に応じて変えることは不得手である。
戊の人と、壬の人
日干が《戊》の人は、不動であることを良しとする。
山の如く不動の魅力が日干(戊)である。
戊(山)は、 五徳でいうと信徳である。儒学では、
仁義礼智の備わった人物は、自然に信徳が備わり、
自ら動かぬ不動であっても、
周りに人が自然に集まるという。
堂々と自信を持って聳え立っていた方が、
まわりに安心感を与える。
つまり、他人を自分事のように想いやり(仁)
自らを内省、言動を羞恥(義)
目下の相手にも、敬意を抱き(礼)
平等性をもって判断できる知性(智)
この4つの徳性を備えた人物を、四徳の備わった人物という。
四徳が備わることで、周りから自然に信頼され、
信徳のある人物、不動の魅力が生じるのだ。
佐藤一斎の言う、
山は実を以て体と為して、しかも其の用は虚なり。
日干「戊」の人は、四徳の人間を目指せ。
そうすれば、何もせずに存在しているだけで、
存在感が生じてくる。
水は虚を以て体と為して、しかも其の用は実なり。
日干「壬」の人は、カタにはまらず、
全体を俯瞰しながら流動せよ。
世間にいかに有益な知識・情報を与えても、
自らは虚心、利益・名誉を求めない限り、
その役割は実となる。
言志後録 第124条
山岳も亦昼夜を舎かず。川流も亦寂然として動かず。
日干=戊(山)の人は、不動のように見えるが、
山は、季節により様々な色に移り変わる。
そこにどのような草木が茂り、
どのような動植物があるかで、
様々な色合いに変化を遂げる。
実は動かぬようで、昼夜を問わず動いているのだ。
日干=壬(川流)の人は、常に動いているように見えるが、
よく見ると実は一つの方向にしか動いていない。
不動・流動説に陰陽理論を組み込んでいる。
日干=戊の人は、四徳を備え、
堂々と不動の姿、人々を安心させるには、
言動や行動をすぐに変えてはならないが、
信頼とは、常に自らを内省し、
廻りの人にとって何が最適なのか、
時代を把握しながら、
静かに自分を変えていかねばならない。
日干=壬の人は、
先入観を持たず、自由に常に動き廻りながら、
様々な知識や情報を集め、
必要な人に、利他の気持ちで届けねばならないが、
底流に流れるものは一定であり、
志の方向性を変えてはならない。
それらのバランスを、崩すと、
戊(山)は、感情という噴火を起こすか、
自信喪失という山崩れを起こしてしまう
壬(水)は、氾濫し人々を押し流すか、
渇水して動きがなくなってしまう。
この両者の関係は、土剋水
四徳の備わった人物のみが、
良質の情報を有した人をコントロールできる。
戊と壬の人の組み合わせは、
夫々の人間性が同一でなければ対等にならず、
自分の生き方が理想的でないならば、
自らの人間的格をあげ、
自分に適した相手と出会うしかないだろう。
このように、算命学・陰陽五行論を朱子学を織り交ぜて解釈すると深まり、より強いメッセージを発揮するのではないか。
人間学とは面白い。
山脇史端
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